みなるのブログ

ビビりアラフィフの物思う日々

「時」は来たか?

今、新しい勉強がしたいなぁと、

思っている。

まだ勉強できるかわからないけど、

可能性はある。

 

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ハローワークの、

webデザインの職業訓練に、

申し込みをしてみた。

 

デザイン初心者向けの本を、

2冊ほど買ってみた。

 

先日、自分が派遣で管理職をしていた仕事が

無事に終わった。

 

派遣会社の担当者にも、

次の仕事をお願いしていたのだけど、

マッチするものが無く。

 

少し、あせったこともあったけれど。

 

以前の派遣の仲間と情報交換していたら、

彼女が職業訓練を受けていることを知った。

わたしが以前受けた会場だった。

隣にデザイン関係のコースがあるのも知っていた。

羨ましかったのをおぼえている。

 

そうか。

わたしは、雇用保険払ってきたし、

一年以上働いてるし、失業保険の対象になる。

職業訓練も、前回受講から3年経ってる。

失業保険もらって職業訓練もアリかも。

 

もちろん、働きつづけた方が

お金的には良いのだけど。

(もらえない期間があったり、

もらっても何割か減るしね)

でも、スキルアップして、

その後収入が上がればよいよね?

 

調べてみたら、今月末申し込み締め切りの、

webデザインのコースがあった。

 

今年度は、デザイン系は、

それで終わりだった。

 

…ちょっと、運命を感じたよね。

 

もしかして。

お金も時間も無かったワタシが、

デザインの勉強させてもらえますか?

 

デザインに興味はあったけど。

仕事しながら勉強は実際難しい。

HSPのわたしは、切り替えが下手で、

スキマ時間で勉強、というのも困難。

触らないと上達しないだろう、

PhotoshopIllustrator等のソフトは、

金銭的余裕のない自分には

高価で手が出なかった。

「正直、現実的じゃないな」と、

「今じゃないんだな」と

思っていた。

 

今を、一生懸命、頑張ろうと思っていた。

 

だから、それを見つけたら、

在職中から、ハローワークに行って、

自分が対象になり得るか聞いた。

今月末までに申し込めば大丈夫らしい。

ただ、退職日から申し込み締め切りまでが、

タイトではあったけど、

不可能ではなかった。

 

やりますよ。

不可能でないなら、やります!

 

そして、無事、申し込みを完了させてきました!

 

本当は、ずっと

クリエイティブな仕事がしたかった。

HSPの自分には、適性的にもあっているはず。

 

でも、自分が社会に出る

30年前の時代には、

ネットもなく情報もなく。

クリエイティブを仕事にするなんて、

夢物語だった。

「漫画家」や「画家」なんて、

ひと握りしかなれない。

常識人の母に

「趣味でやったら?」と、アドバイスされた。

(それで何故「看護師」を選択したのかだけど)

 

アラフィフで、

夢を見ても良いかなぁ。

好きを仕事にできるかなぁ。

 

ある意味、最後のチャンスな気がした。

 

webデザインは、

おそらく、結構、難しい。

コーディングといって、

デザインをウェブ言語?に直す作業とか

あるらしい。

多分、本気で、

感性も頭も記憶力も使わないと、

覚えられないと思う。

アラフィフからガチ勉強できるかな?

ついていけるかな?

でも。

好きなことだから、頑張りたい。

 

派遣の担当者にも、最終日に、

「失業保険と、職業訓練も検討しています」と

話した。

「何を勉強するの?」

「webデザインです」

「えー!!すごい!!

元の仕事(看護師)から、

どんどん違う方向へ行くんですね!

でもいいんじゃないですか?

チャレンジしてみてくださいよ!

真面目にコツコツやるみなるさんなら、

いいと思います!

誰でもできる仕事じゃないですし。

資格とったら、

我が社からもご紹介できるかもしれないですよ!」

 

リップサービスだろうと言われたけど。

でも、応援してもらえるのは嬉しかった。

 

まだ、年明けに選考試験があるので、

こんなこと言って、落ちたら恥ずかしいけど。

 

でも。いいか。

わたしの人生で、受けないこと自体が

後悔しそうな気がしたんだ。

受けてだめなら、

まだ今じゃないんだ。

そういうこと。

それはそれで、次の就活に頑張れる気がする。

 

幸い、親も、

金銭面で迷惑かけないなら

反対するかんじでもない。

かえって、母は少し嬉しそうだった。

子供の頃、

さんざん絵を描いていたのは、

知っているだろうから。

 

そんな期待や心配をはらみつつ。

 

年末だし。

今日は片付けを頑張ります。

 

 

自分を好きになれたら。

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自己肯定感が、低い。

自分を大事にできない。

 

若い頃みたいに、

積極的に自分を虐めにいくことはないけど。

でも、自分を大事にできてないのは、

今も生きていて、

いろんな場面で出てくる。

 

頑張った自分を、自分で褒めてやれない。

自分で、自分の機嫌をうまくとれない。

「自分は、足りないんじゃないか」

「自分が、悪いんじゃないか」

得体の知れない不安で、落ち着かなくて。

誰か第三者に認めてもらわないと、

不安がとれない自分がいるのは、

我ながら面倒くさいなと、感じている。

 

大事にできてないなと感じるよくある瞬間が、

食事だ。

 

わたしは、健康には興味があるけど、

食には興味がない。

ちょっと矛盾するようだけど。

ハードとしての、この「みなるの肉体」を

いい状態で維持するための食糧には興味があるけど。

「美味しくたべる」

「ゆっくり食べる」

「楽しく食べる」

わたしのソフト面の、

心を満たす「食事」には、

興味が無いということだ。

 

要は、体にいいものを、

安く手っ取り早く用意して、

短時間で食べられればそれでいい、という生活。

 

誰かと食卓を囲んだのは、

どれくらい前だろうか?

 

一人暮らしから実家に帰ってから、

父と食卓を囲まなくなった。

父にはいつも食事中も怒られて来た。

だから、

気分悪いので、今は食事は自室で1人で食べる。

家族揃って、鍋も外食も数年していない。

でも、父を交えてしたところで、

心豊かな食卓になるとも思えず。

仕方ないかなと。

たまに、父抜きで食事に行ったりはする。

 

朝は、家族の誰も起きてこないうちに、

母の前日の残り物をつめた弁当を作りながら、

同じく残り物をかき込む。

栄養は考えて、

青汁、プロテインオートミールなんかも食べる。

でも、とにかくかき込むのだ。

仕事の日は味わっていられない。

 

昼も1人でお弁当を食べる。

管理職で昼も仕事が続いているので、

職場の状況がわかるところで

スマホを見ながら食事をする。

 

夕方は結構忙しく、

真っ直ぐ帰らないことも多い。

できれば19時までに夕食を食べ終えたいのと、

そんなに夕食に重きを置いていないこともあり、

ほぼ車中で食べる。

運転しながら食べることもある。

コンビニで値下げしたパンを買ったり、

涼しくなれば、朝おにぎりを作る。

フルーツグラノーラをボトルに入れて食べたり。

チーズや魚肉ソーセージ、

野菜ジュースや豆乳。

職場の給湯器でもらったお湯で作ったコーヒー。

 

きっと、お金と時間をかけずに、

空腹が満たされればいいんだ。

 

食べるものを用意する時間と、

食べる時間がもったいない気がして。

 

自分の体は大事にしてるけど。

自分の心は大事にしてない気がする。

 

自分の体を大事にするのは、

コスパよく使い続けるため。

できるだけ迷惑かけずに、

自分で自分のことを済ませたいから。

 

何となく、そこは、自分への愛着とは違う。

「生きるための道具」としての身体と、

なんか、割り切っているから。

だから、「メンテナンス」という言葉が

すごくしっくりする。

 

その身体に宿る「ワタシ」という魂が、

好きなんじゃない。大事なんじゃない。

言うなれば、多分、自分的には、

「ワタシという魂」なんて、どうでもいい。

 

この「肉体」が、社会的役割を果たしてくれれば。

壊れる時が来るのなら、

できるだけ迷惑をかけずに、片付けられれば。

 

食べること自体を、楽しむ友人達を見ると、

自分とは違うなと思うし。

彼女らは、

それなりに自分を好きで、

自分を楽しんでいるように見えるし、

甘やかしてあげることもあるみたいだ。

 

そうだな。

自分を、甘やかせないんだな。

自分の心を豊かにするために、

時間やお金や労力を、使う気にならない。

「無駄」だと思ってしまう。

時間やお金や労力は、価値のあるもの。

わたしがガマンすれば、節約できるものと思う。

 

「みなる」という魂に、

価値を感じない。

わたしは、「ワタシ」に、価値を感じていない。

 

ああ。なんか、悲しい。

ブログ書いてて、ちょっと異常だなと思った。

 

そもそも、

価値って何だろう。

時間や、お金や、労力や、

ある一定の基準で数字に換算できるもの?

 

それはあるけど、

それだけじゃないかもしれない。

 

とおい昔に、

好きな人がいたっけ。

何がどう、とかじゃなくて、

彼が彼であることが、ただ、嬉しかった。

理屈では、無かった。

そんな風に、わたしも誰かに思われたかった。

でも、わたしは、そうは思われなかった。

 

もちろん、

親とかにとっては大事な子供だろうけど。

でも、今は、

「必要な時助ける」「ある程度ちゃんと働く」

社会的価値を自分に持たせて、

それを自信に、親とも接してる気がする。

「あなたには、

わたしの「価値」が必要でしょう?」

 

わたしの社会的価値を抜きにしたら、

誰にも必要とされない気がしているのだ。

「みなるという魂」は、

誰にも必要とされないし、

そこに相応の社会的価値のある誰かがいれば、

「みなるという魂」で、なくても良いのだ。

 

でも。こう書きながら、

泣きそうになる自分がいる。

 

本当は、わたしが、

「みなるという魂」を、大事にしないといけない。

いけない、というより、

「だって、ワタシが好きだから」

そういう、気持ちで、ありたい。

理屈抜きで、わたしを好きになれたらいいのかな。

 

「自分を好きではない生き方」も、

それはそれで楽な部分もある。

自分への執着が薄いから、

周りと揉めずに周りに譲れる。

自分を主張することが少ないから、

ぶつかることも少ない。

 

でも。

今は、

もう少し、自分を好きになれたら。

 

せめて、何も出来ない時の自分を、

許して、心穏やかにいられたら。

 

今は、

「休んでる自分」

「怠けてる自分」

「遊んでいる自分」を、

許せないのだ。

 

自分を主張せずに、

周りとぶつからない生き方は、

それはそれで、争わなくて良いけど。

頑張らない、「ただのみなる」を

許せないのは、それはそれで穏やかではない。

一番身近な自分に、

常に見張られて、責められ続けるのだから。

何もしない自分に、何も出来ない自分に、

「役立たず」と、暴言を吐く自分がいる。

これは、穏やかではないし。

今の時代、言っちゃいけないやつだよなぁ。

 

若い時より、自分を虐めなくなったのは、

単に、自分が社会的価値を

多少なりとも作り出せるようになったからだ。

 

「役立たずな自分」が嫌いなのは、

何も変わってない。

 

どうしたら、もっと自分を好きになれるのかな。

自分の好きなところはもちろんある。

でも、結局それは、

価値に結びつくものや、

数字ではかれる機能だったりする。

そうか。

わたしはわたしが好きなんじゃなくて、

評価しているだけなんだ。

 

自分を好きになる方法は、

まだ、全然わからない。

50年生きても、まだわからないんだなぁ。

 

今の、

「価値」というモノサシではかる生き方も、

悪くはないんだ。

変にアツくなりすぎたり、

落ち込みすぎたりしない。

「数値」「データ」として、

自分を冷静に評価できる。

 

ただ、自分を好きになれたら。

もっと人生が楽しいんじゃないだろうか。

好きな人が1人増えたら、

楽しいんじゃないだろうか。

ましてそれが身近な人なら、

なおさら楽しいんじゃないだろうか。

好きな人と生きる人生は、

楽しいんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の景色へ

婦人科で、

更年期になってきていると言われた。

 

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まあ、アラフィフだから、当然と言うか。

健康と言うか、来るものが来るだけなのだけど。

 

年齢によるホルモン分泌の乱れで

生理に問題があったので、

ここ数年婦人科に通院して、

内服治療をしてきたのだけど。

先日の採血結果で、

ホルモンがもうほとんど出ていないとわかった。

近い将来、生理も止まるらしい。

そうすると、

ホルモンがあったところから、

急に無くなった環境に、

身体が慣れるまで、

いろいろ症状が出るらしく。

 

今のところ、そんなに症状が無いので、

これまでの薬を切って、

1ヶ月後に経過観察になった。

気になる症状があれば、

多分薬で調整してくれるのだろう。

 

40年近く続いた、

生理の鬱陶しさ、面倒くささ、

スケジュール調整や、服装やトイレの心配、

頭痛や腹痛やむくみなどの

不快感や経済的負担からも解放されるのは、

喜ばしいことだ。

でも、

「わたしはこの人生は

子供を産まないで終わるんだな」と、

改めて確定診断されるような、

そんな気持ちになり。

 

出産しないだろうことも、

結婚しないだろうことも、

最近は前向きにとらえていたから、

ダメージというほどでもないけど。

 

心の奥に、小さいもやもやがいる。

 

親には、

孫の顔を見せられないのは、

改めて申し訳ないけれど。

 

親もわかっているはずだ。

だから、今日の診断は、

改めて母に言う必要は、ないかと。

 

改めて、ガッカリさせそうで、

そこが切ないから。

 

いつの間にか、

「そう、少し前に生理がおわって、

楽になったよ」と、

何かのタイミングで言えばいいや。

 

女が終わる、なんて、

古い言い方だけど。

 

もともとあんまり、

わたしのアイデンティティ

女性らしい要素が含まれていなくて。

そこで、

妻でもなく、母でもなく、彼女でもなく

娘ではあるけど、子供というか。

別に、女性でなければならないわけでもない。

現在、社会的役割として、

女性性が求められていないので。

ホルモンがなくなったら、

なおさら、女性らしさがなくなりそうだな。

もともとあまり、

内側から「女」が出てくるタイプじゃないので。

「みなる」は別に、

女じゃなきゃありえないわけでもない。

 

更年期後は、

男でも女でもない、

「みなる」という固有種になりそうだ。

できればおっさんには、

ならないようにしたいけども。

 

どちらかというと。

健康面で

これまで女性ホルモンに守られていた部分が、

守られなくなる点を、

注意した方がいいかな。

 

肥満や、高血圧、糖尿病、動脈硬化リスク…。

肌や髪も、がくっと老け込むかもしれないし…。

 

より労わって、大事に使っていかないとなぁ。

この体。

 

ひとまず、もし、

女性ホルモンが完全に止まっても。

死んじゃうわけじゃ無いし。

わたしがわたしで無くなるわけでもない。

はたからみて、わかるわけでも無いし、

わたしよりお姉さんの女性方の多くが

経験済みのことなわけだし。

そんなに、

恐れることでもない。

お姉さん方には、

「楽になるよー!」と言われてるし。

 

そう。全然、その先が、長いのだ。

 

新しいスタート、て、感じかなぁ。

 

まだ何十年か、生きるつもりではいるし。

生理が終わったら、

身軽にもなるし。

 

そうだよね。

 

何となく書いてたら整理できてきた。

 

楽になるんだ。

グットニュースなのだ。

 

更年期症状が出なければね。

もし出たら、婦人科の先生に、

相談に乗ってもらえばいいや。

 

なんとかなる、なんとかなる。

 

 

 

 

低く飛ぶ飛行機で思い出した

f:id:Minaru:20230909105856j:imageわたしは、小学生の低学年まで、

低空を飛ぶ飛行機に怯えていた。

「空襲」があるのかもと思ったのだ。

 

飛行機は、

「旅客機」じゃなくて

「戦闘機」のイメージしかなかった。

 

だって、誰も戦争が終わっているって、

教えてくれなかったから。

 

子供ながらに楽しい時間を過ごしていても、

「誰かがいつか攻めてくるのだろうか?」と、

ふと、不安がよぎっていたのを、思いだす。

 

戦争を忘れさせない教育だったのだろうか。

 

学校には「裸足のゲン」とかがあったり

しばらく通った学童保育所にも、

戦時中の話の本がいくつかあった。

アンネの日記」とか、

ピカドン」とかいう原爆の絵本もあった。

若草物語」とかにも、戦争の話が出てくる。

確か国語の教科書にもあった。

そんなに身近に戦争があるものなのだと思った。

テレビの連ドラとかでも、戦争が出てきて。

空襲だとか、防空壕だとか、

配給だとか、疎開だとか、

幼い自分も当たり前のように覚えてしまった。

 

インパクトが強かったせいか、

そればかり思い出すのだ。

他にもたくさん読んだり覚えたはずなのに。

 

祖父母や母の親の話でも、

つい少し前のことのようで。

何度も聞くうちに、自分の体験のような気がして。

 

おしえてくれなかったら、

まだこの「戦争」という物語が

続いているのかと思うよ。

…みんなは、思わなかった?

HSPのわたしだけかな?

 

わたしは漫画好きだけど、

裸足のゲンはちゃんと読んだことがない。

他の子が読んでるページをチラ見しただけで、

その夜怖くて眠れなくなったから。

誰かの悲惨な死が、

これでもかというほど、克明に描写されていた。

多分、今も読めないと思っている。

「痛かったよね」「悲しかったよね」

「怖かったよね」「生きてすることあったよね」

「どんな気持ちだったかな」と。

考えたら苦しいのに、考えずにいられなかった。

 

「残酷」という意味を理解したのは、

多分その頃だろう。

 

蛍の墓」とかも、

この世のものとは思えない悲惨な話だったし。

大人になっても、

自分のキャパシティを越える

「残酷」「悲惨」があると思う。

今でも、その忘れたい残酷な部分を

自分も忘れられずにいる。

学校とかには教育の意味で置かれてただろうけど。

最近の悲惨な事件とかでも、

今はこの世にいない当事者の気持ちを思って、

いたたまれなくなる。

聞いた自分が、長く傷ついてしまうような

そんな事件や報道が多い。

 

ドラマやマンガでもそうだ。

なんだろう、

みんな単純な事件や犯罪に飽きてしまったの?

なんでそんな過激な展開に?と思うものや、

人間不信になりそうなザワザワするストーリー。

スマホで情報やマンガを見ていても、

突然飛び込んでくる広告で、ギクッとする。

インパクトが強いシーンを流してるのだろうけど。

これって制限できないのかな。

(無料の記事ばかり読んでるからだろうけど)

マンガで親しみやすい顔してるけど、

明らかに内容は犯罪だよね?

こんなのたくさん見てたら、

みんなおかしくならないか。

自分にもできそうな気がする人が出てこないか。

もう、出てきてるんじゃ無いのか?

模倣犯はいないのか?

これを娯楽で楽しめる人がいることに、

ちょっと自分には理解ができない。

 

小学校低学年のある時、

母と歩いていて、飛行機が来たので、

「あの飛行機は、爆弾落とすの?」と聞いたら

「もう戦争は終わっているから落としてこないよ」

と聞いて、「そうなんだ!」と

すごく安心したのを覚えている。

もう、日本は攻められないんだと。

 

昨日台風が来て、

日本のあちこちに警報が出た。

早めに帰宅したわたしは、母と話していた。

「命を守る行動ったって、最後は自己責任だよね」

「言われないよりはいいけど、

頑丈な建物なんて、この辺に無いし」

北朝鮮のミサイルもそうじゃん?

どうしたらいいのって」

 

「昔は防空壕ってあったんでしょ?」

「あったけど、あれは穴を掘っただけだよ」

「今だったらシェルターとか用意するようなの?

まあ、核ミサイルだとどうしようもないけど」

 

去年、ロシアのウクライナ侵攻があったとき、

ウクライナに大きなシェルターがあるのを知って、

この大きさは国家的事業なんだろうなと思った。

ショッピングモールや地下鉄などの、

文化的な生活と、自衛を両立させているんだなと。

 

日本で大きい建築物を作るという話が出ても、

それがシェルターを兼ねるとか備える話は、

記憶に無い。

 

日本には、

今のところ、逃げ場所はなさそうだ。

 

今朝も

飛行機が低く飛んで、

遠い昔の

「あの飛行機は、爆弾落とすの?」と言った、

あの感覚を、うっすら思い出した。

 

最近は北朝鮮のミサイルの警報も頻繁に入る。

「もう戦争は終わっているから落としてこないよ」

なんだか、もう、

そう言えない時代になってきてしまったのかな。

 

 

 

 

祖母の遺伝子

昨日、仕事前に、バタバタと朝食を摂っていたら、

珍しく母が起きてきた。

 

明日、健康診断だと話したら、

「みなるは丈夫だから」

「おばあちゃんの血だね」と言われた。

わたしは、

「丈夫に産んで下さって、ありがとうございます」

と、お礼を言った。

 

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健康はプライスレスですからね。

 

まあ、今は年齢のせいか、

乱れ始めた生理のコントロールで婦人科と、

ストレスによるめまいで耳鼻科には通ってるけど。

 

わたしは、首と、腰と、膝が悪い。

加齢やストレス、使いすぎの

年齢的な関節の変形トラブルだ。

つまり整形外科的なトラブルなのだけど。

それに関しては、今は気をつけて、

無理しすぎないようにしているので、

現在は自覚する炎症も無く、普通に過ごせてる。

 

これまで、内科的には大丈夫だった。

キャラはHSPで、元気、ではないのだけど。

体は元気というか、丈夫だ。

内臓は問題を指摘されたことはない。

若い頃に、ブラックな職場で、

夜勤含む最高20連勤をしたことがあるけど(苦笑)。

「よく、続くね」と言われたけど。

好きで続けたわけじゃない。

休む理由が作れなかった。

動いちゃうし、体が壊れないから、休めなくて。

いいように使われてしまっていたけど。

疲れても、

口唇ヘルペスができて、

それだけ。

ヘルペスでは休めない。

体自体に不調が無いので、

「疲れてるんだねー」で終わってしまった。

出るべき体調不良が、ヘルペスひとつで、

済んでしまったのだ。

 

まあ、そんなことは、

20代30代の時の昔の話。

今は無理はさせられない、派遣の仕事で

規則正しく、ヌクヌク働いてるので、

今はさすがに無理だろうけどね。

 

もともと体は丈夫だけど。

加えて用心深い性格だし、

もと看護師でもあるので、

健康オタクの面もある。

人体は基本的に消耗品だと思っているので、

体を壊さないように、

出来るだけ傷めないように、

老化を早めないように、

長く支障なく使えるように、

適正な使用をしたいと、

最近は、常に意識はしている。

もちろん、普通にお菓子やパンも食べるし、

必要なら無理もするけど。

 

そう。

数年前に亡くなった祖母は、

いくつか「伝説」があった。

祖母は、7ヶ月で産まれた、超未熟児だったらしい。

当時は育たなくて当たり前だったろう。

親も、まず育たないだろうからと、

4ヶ月くらい、

名前もつけず籍も入れなかったそうだ。

大柄な父親の、両手におさまる大きさだった。

昔の庶民のこと、

未熟児でも、保育器も何も無い。

普通に布団に転がされていたのだろう。

なのに、風邪もひかずに、育ったらしい。

身長も、150センチ以上あったので、

体も当時は小さい方でもない。

わたしも大きい方だしな。

大分早く産まれたのに、

未熟児に多くみられる障害もなかったようだ。

自力で母乳も飲めて、

呼吸も目も問題無かったということか。

確かに、障害の記憶は無いし、

かえって頼もしいおばあちゃんだった。

すげぇな。

それで、その後農家で働いて、4人産んで育てて、

家を建てて家庭を支えて、

多少の貯金も残したしっかり者だ。

大した病気もしなかった。

80過ぎて、山を降りて駅まで歩いたとか、

85過ぎまで畑に出ていたとか。

そうして90過ぎまで生きたのだから、

大したものだ。

わたしが、その遺伝子を頂けているというのなら、

とても光栄なことである。

(もちろんそんな証拠は無いが)

 

何となく、最近は、この人生で、

生活習慣病のリスクは、

避けて通れそうな気がしている。

高血圧、糖尿病に始まる、

脳梗塞心筋梗塞とかの、全身性の血管の疾患は。

今の生活を続ければ、ならないんじゃないか。

まあ、あと、ガンだけはわからないと思ってる。

生活習慣に関係ないガンもあるから。

ちゃんと摂生して暮らしていても、

ガンになっている人を、

看護師時代たくさん見て来たから。

明らかなガン家系というほどではないけど、

自分もそのリスクはあるとは思う。

老化現象のひとつだと言うけど。

避けてとおれないというか。

わたしも、こればかりは運というか、

当たってしまうかもしれない。

体感的に、

気をつけようがない気がしてる。

 

今日、先程無事に検診を終えてきた。

だんだん歳と共に、検査項目が増えるよね…。

まあ、それだけ、

いろんなリスクが上がるからだけど。

とりあえず、先生の問診では、

近眼は去年と変わらないし、

身長、体重、血圧、心電図等、

他は問題ないそうだ。

まあ、採血やX線とかの結果はまだ出ないけど。

「あえて言うなら、運動する習慣を」とのこと。

うーん、確かにそれはそうだ…。

結構難しいんだけどね…。

前向きに検討します…。

 

でも、ひとまず、今日は問題無し。

細かいデータは後日。

 

とりあえず。

おばあちゃん、お母さん、

丈夫な体をありがとう。

大事に使わせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冤罪

ずっと閉まらないと思っていた、

古いタンスの扉が閉まった。

 

いや、実はわたしが詰め込み過ぎて、

閉まらなかったという、事実がわかった。

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わたしの部屋にある、古い洋ダンス。

 

わたしの部屋は元々、父の部屋で、

そのまま置いてあるのだ。

母の花嫁道具の一つだったのか、

ものすごく重たい、古い、大きな洋ダンス。

正直、動かすことができない。

親も歳をとり、わたしも膝が悪い。

我が家のマンパワーでは、既に無理だ。

動かす時には業者にでも頼むしかないな。

何で2階になんて、入れたんだろうと。

その昔、45年前の引越しの日に、

親戚らの手を借りて、

ベランダからクレーンで入れたと聞いたような。

 

なんとか、わたしはそのまま、

洋ダンスとして、衣類を収納しているけど。

正直、かわいくは、無い。

わたしが気に入る要素は、無い。

扉の「パチン」と止めるところが、

壊れている。

どんなに閉めても、少しふわっと開いてしまう。

いつも

「ちゃんと閉まらないな」

と、プチストレス。

 

しかも、パソコンを開いた机の真後ろで、

オンラインミーティングに

カメラオンで参加すると、

写ってしまう。

閉まらない古いタンス。

 

もともと、お見せできない部屋だけど。

古いのみならず、ちゃんと閉まらないタンスは、

さすがに、いたたまれなくて。

オンラインミーティングアプリを使うときは、

パソコンをやや斜めに配置して、

カメラをタンスからそらして、

カーテンを写すようにしている。

 

しかし、先日。

いろいろ片付ける気になって、

着なくなったり、着にくくなった服を、

処分にまわしたら、

いつもパンパンのタンスが、

少しゆとりが出た。

 

そうしたら、

なんと、タンスが、

…閉まったのだ。

 

何ということだ。

冤罪だったのだ。

 

ごめんよぅ。

そうだったのか。

壊れて閉まらないというより、

詰めすぎて閉まらなかったのか。

 

タンスが悪かったんじゃ無い。

わたしが悪かったのだ。

 

この部屋がわたしの部屋になって何十年、

ずっと「閉まらないタンス」と、

濡れ衣を着せていたのだ。

 

古いタンスだけど。

閉まってれば、まあまあ、タンスだ。(?)

かっこよくないけど、

これまでみたいに「酷く」はない。

 

タンスが閉まってると、

自分の部屋が、ちょっとスッキリする。

襖も畳も古くて取り替えたいし、

「あ〜!もう!」と、

思うところはたくさんある部屋だけど。

今回タンスが閉まって、

少し、自分の部屋が好きになれた。

 

微妙に体をねじってミーティングに参加するのが、

苦痛だったけど。

今度から、正面向いて参加しよう。

 

片付けて、よかったと思った。

ずうっと、「閉まらないタンス」と思って、

一緒に過ごすところだった。

下手したらこのまま、

一生住んでしまいそうな家だし。

このタンスが閉まることを知ることもなく、

死んでしまうかもしれなかった。

実は君、「閉まるタンス」だったんだ。

 

大したことじゃない。

大したことじゃないんだけど。

 

ちょっと、自分の中では、

軽く事件だった。

 

こっそりとザワザワ

これまでも書いていることだけど。

わたしは以前看護師で働いていたけど。

現在は辞めて、派遣で事務仕事をしている。

 

腐れ縁なのか皮肉なのか。

1番長く働いて、

嫌な思い出がいっぱい詰まった(苦笑)

病院の情報を、

今の仕事でも時々見ることがある。

 

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そしてまた、今の職場から

その病院が、まあまあ近かったりする。

下手したら、見えそうなくらい。

 

その病院を見る度に、今も何とも言えず、

心が「ザワッ」とする。

 

ひどい目にあった。

この人生で、ワーストクラスに、意地悪な先輩と、

10年も我慢して働いた。

辞めたくて辞めたから、後悔は微塵も無い。

 

今は過去のこと。

看護師に戻るつもりもない。

 

今の職場では、

自分が看護師だったことも一部しか知らない。

ましてその病院に働いていたことを、

知る人はいない。

 

自分1人で、こっそり、ザワザワしてる。

 

たまたま、今日その病院を調べたら、

評価がめちゃくちゃ悪くて、ビックリした。

 

都会と田舎の中間より、やや田舎寄りの文化圏。

この辺のリアルな病院の口コミは、

それなりにアンチの意見もあるものと思っている。

「評判の完璧な病院」など、あるはずがないと。

それなりに、「田舎の病院」臭もするだろう。

昔ながらというか、新しいものが取り入れられない

個人病院も多いだろうと想像もつく。

「いい病院」というより、

「先生やスタッフと、相性がいい病院」に、

出会えたら。そこそこ正解な気がする。

いい治療というか、

安心して話せるスタッフがいれば。

そこから病院への信頼になったりする。

だから、シンパとアンチの差が激しい。

医療技術もあるけど、

「大先生が大好き」みたいなお年寄りが多いのだ。

 

そして、

曲がりなりにも、

医療業界の内側で働いていた者として、

全部全部、患者さんの希望に添えないだろうことも

想像がつく。

少数の人の丁寧な対応があっても、

もの言える人の声にかき消されてしまうのも

わかる。

優しいスタッフの声ほどなかなか、

上には届かない。

だから、この辺の病院の異常な高評価は、

逆にありえないくらいに思ってはいる。

 

だから、あまり評価が良くないのはわかっていた。

わたしがいた頃から良くなかったし。

 

しかし。

わたしの想像を超えて、酷い評価だった。

他に同クラスの病院があるのか

心配になるくらい、評価が悪かった。

 

以前より、明らかに、下がってね??

数字を読み違えたかと思った。

 

何となく、

わたしがいた頃もそうだったけど、

ますます大変な病院になってしまったんだなと、

確信してしまった。

 

辞めて、良かったんだなと、

改めて確信した。

 

あの病院は、

新しいものを取り入れて、

良くしていく方針だったはず。

でも、結局、

表面ばかり、数字やカタチばかりで、

中身が良くなっていないんだろうなと思った。

 

その病院にもちろん今も残っていて、

知っているスタッフもいるし。

もちろん悪い人ばかりではなかった。

…でも、いい人はみんな辞めてるか、

辞めたがってたなぁ。

多分、

人材がいないんじゃないかなぁ。

なんというか。

失礼な言い方かもしれないけど、

上にも下にも、

人柄が優れた人が、

「親切で、誰に対しても公平な人」が、

残ってないんじゃないかなぁ。

もし居ても立場が悪いんじゃないかなぁ。

患者さんに優しい人が、

ちゃんと評価されて無いんじゃないかな。

「患者さんに優しい人」と

「患者さん」が辛いのは、

考えるだけで、苦しいなぁ。

 

…なんて。

 

今さら、どうしようもないし、する気も無いし、

答えなんかないのだけど。

 

いつにも増して、

心が「ザワザワ」した。

「ああ」、と思ってしまった出来事だった。