みなるのブログ

ビビりアラフィフの物思う日々

自分を好きになれたら。

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自己肯定感が、低い。

自分を大事にできない。

 

若い頃みたいに、

積極的に自分を虐めにいくことはないけど。

でも、自分を大事にできてないのは、

今も生きていて、

いろんな場面で出てくる。

 

頑張った自分を、自分で褒めてやれない。

自分で、自分の機嫌をうまくとれない。

「自分は、足りないんじゃないか」

「自分が、悪いんじゃないか」

得体の知れない不安で、落ち着かなくて。

誰か第三者に認めてもらわないと、

不安がとれない自分がいるのは、

我ながら面倒くさいなと、感じている。

 

大事にできてないなと感じるよくある瞬間が、

食事だ。

 

わたしは、健康には興味があるけど、

食には興味がない。

ちょっと矛盾するようだけど。

ハードとしての、この「みなるの肉体」を

いい状態で維持するための食糧には興味があるけど。

「美味しくたべる」

「ゆっくり食べる」

「楽しく食べる」

わたしのソフト面の、

心を満たす「食事」には、

興味が無いということだ。

 

要は、体にいいものを、

安く手っ取り早く用意して、

短時間で食べられればそれでいい、という生活。

 

誰かと食卓を囲んだのは、

どれくらい前だろうか?

 

一人暮らしから実家に帰ってから、

父と食卓を囲まなくなった。

父にはいつも食事中も怒られて来た。

だから、

気分悪いので、今は食事は自室で1人で食べる。

家族揃って、鍋も外食も数年していない。

でも、父を交えてしたところで、

心豊かな食卓になるとも思えず。

仕方ないかなと。

たまに、父抜きで食事に行ったりはする。

 

朝は、家族の誰も起きてこないうちに、

母の前日の残り物をつめた弁当を作りながら、

同じく残り物をかき込む。

栄養は考えて、

青汁、プロテインオートミールなんかも食べる。

でも、とにかくかき込むのだ。

仕事の日は味わっていられない。

 

昼も1人でお弁当を食べる。

管理職で昼も仕事が続いているので、

職場の状況がわかるところで

スマホを見ながら食事をする。

 

夕方は結構忙しく、

真っ直ぐ帰らないことも多い。

できれば19時までに夕食を食べ終えたいのと、

そんなに夕食に重きを置いていないこともあり、

ほぼ車中で食べる。

運転しながら食べることもある。

コンビニで値下げしたパンを買ったり、

涼しくなれば、朝おにぎりを作る。

フルーツグラノーラをボトルに入れて食べたり。

チーズや魚肉ソーセージ、

野菜ジュースや豆乳。

職場の給湯器でもらったお湯で作ったコーヒー。

 

きっと、お金と時間をかけずに、

空腹が満たされればいいんだ。

 

食べるものを用意する時間と、

食べる時間がもったいない気がして。

 

自分の体は大事にしてるけど。

自分の心は大事にしてない気がする。

 

自分の体を大事にするのは、

コスパよく使い続けるため。

できるだけ迷惑かけずに、

自分で自分のことを済ませたいから。

 

何となく、そこは、自分への愛着とは違う。

「生きるための道具」としての身体と、

なんか、割り切っているから。

だから、「メンテナンス」という言葉が

すごくしっくりする。

 

その身体に宿る「ワタシ」という魂が、

好きなんじゃない。大事なんじゃない。

言うなれば、多分、自分的には、

「ワタシという魂」なんて、どうでもいい。

 

この「肉体」が、社会的役割を果たしてくれれば。

壊れる時が来るのなら、

できるだけ迷惑をかけずに、片付けられれば。

 

食べること自体を、楽しむ友人達を見ると、

自分とは違うなと思うし。

彼女らは、

それなりに自分を好きで、

自分を楽しんでいるように見えるし、

甘やかしてあげることもあるみたいだ。

 

そうだな。

自分を、甘やかせないんだな。

自分の心を豊かにするために、

時間やお金や労力を、使う気にならない。

「無駄」だと思ってしまう。

時間やお金や労力は、価値のあるもの。

わたしがガマンすれば、節約できるものと思う。

 

「みなる」という魂に、

価値を感じない。

わたしは、「ワタシ」に、価値を感じていない。

 

ああ。なんか、悲しい。

ブログ書いてて、ちょっと異常だなと思った。

 

そもそも、

価値って何だろう。

時間や、お金や、労力や、

ある一定の基準で数字に換算できるもの?

 

それはあるけど、

それだけじゃないかもしれない。

 

とおい昔に、

好きな人がいたっけ。

何がどう、とかじゃなくて、

彼が彼であることが、ただ、嬉しかった。

理屈では、無かった。

そんな風に、わたしも誰かに思われたかった。

でも、わたしは、そうは思われなかった。

 

もちろん、

親とかにとっては大事な子供だろうけど。

でも、今は、

「必要な時助ける」「ある程度ちゃんと働く」

社会的価値を自分に持たせて、

それを自信に、親とも接してる気がする。

「あなたには、

わたしの「価値」が必要でしょう?」

 

わたしの社会的価値を抜きにしたら、

誰にも必要とされない気がしているのだ。

「みなるという魂」は、

誰にも必要とされないし、

そこに相応の社会的価値のある誰かがいれば、

「みなるという魂」で、なくても良いのだ。

 

でも。こう書きながら、

泣きそうになる自分がいる。

 

本当は、わたしが、

「みなるという魂」を、大事にしないといけない。

いけない、というより、

「だって、ワタシが好きだから」

そういう、気持ちで、ありたい。

理屈抜きで、わたしを好きになれたらいいのかな。

 

「自分を好きではない生き方」も、

それはそれで楽な部分もある。

自分への執着が薄いから、

周りと揉めずに周りに譲れる。

自分を主張することが少ないから、

ぶつかることも少ない。

 

でも。

今は、

もう少し、自分を好きになれたら。

 

せめて、何も出来ない時の自分を、

許して、心穏やかにいられたら。

 

今は、

「休んでる自分」

「怠けてる自分」

「遊んでいる自分」を、

許せないのだ。

 

自分を主張せずに、

周りとぶつからない生き方は、

それはそれで、争わなくて良いけど。

頑張らない、「ただのみなる」を

許せないのは、それはそれで穏やかではない。

一番身近な自分に、

常に見張られて、責められ続けるのだから。

何もしない自分に、何も出来ない自分に、

「役立たず」と、暴言を吐く自分がいる。

これは、穏やかではないし。

今の時代、言っちゃいけないやつだよなぁ。

 

若い時より、自分を虐めなくなったのは、

単に、自分が社会的価値を

多少なりとも作り出せるようになったからだ。

 

「役立たずな自分」が嫌いなのは、

何も変わってない。

 

どうしたら、もっと自分を好きになれるのかな。

自分の好きなところはもちろんある。

でも、結局それは、

価値に結びつくものや、

数字ではかれる機能だったりする。

そうか。

わたしはわたしが好きなんじゃなくて、

評価しているだけなんだ。

 

自分を好きになる方法は、

まだ、全然わからない。

50年生きても、まだわからないんだなぁ。

 

今の、

「価値」というモノサシではかる生き方も、

悪くはないんだ。

変にアツくなりすぎたり、

落ち込みすぎたりしない。

「数値」「データ」として、

自分を冷静に評価できる。

 

ただ、自分を好きになれたら。

もっと人生が楽しいんじゃないだろうか。

好きな人が1人増えたら、

楽しいんじゃないだろうか。

ましてそれが身近な人なら、

なおさら楽しいんじゃないだろうか。

好きな人と生きる人生は、

楽しいんじゃないだろうか。