みなるのブログ

ビビりアラフィフの物思う日々

「無い」という自由

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今、つくづく自分は、

自由だなぁ、と思っている。

 

それを、わたしは、

清々しく感じている。

 

何をしても、

何をしなくても、

良いのだ。

 

もちろん、自分の責任の取れる範囲でだけど。

 

これから感じたり、考えたり、

自分の意思で決めたように、

身を振ることができるのだ。

 

そう。責任。

今は、責任が無いから、

自由度が高いのだ。

逆にいうと、不安定、とも

言えるかもしれないけど。

 

守ってくれるものが無いとも、言えるけど。

 

旦那も、子供も、

財産も、キャリアも、

立場も、名声も、

無い。

逆に言えば、守るべきモノが、無い、ということ。

 

上のようなモノは、

良くも悪くも、手に入ってしまうと、

それを守ろうと、守りに入ってしまったり、

後先や周りのことを考えると、

簡単に動けなかったり、

するものだ。

 

それを、心地よいと思う人もいるだろう。

必要とされたり、充実感があったり、

責任を感じたり。

 

まあ、わたしのように、

アラフィフにもなれば、

守るべきものの、

ひとつふたつあるのが当たり前だし、

逆に無い方が

「大丈夫?」と思われるかもしれないけど。

 

まあ、今のわたしは、

「大丈夫?」な人でも、しょうがない。

 

まあ、全く無いわけではない。

高齢の親がいるし、

親の旧い家もある。

まあ、でもそのくらいか。

 

看護師を辞めた時に、

キャリアなんかは、意味がなくなった。

いつ契約が終了するかしれない、

ただの派遣社員になった。

でも、看護師時代を振り返っても、

自分にとっては、

ただ、耐える時間だったように思えて。

その仕事には、全く未練は無い。

かえって、解放されたのだ。

 

旦那、子供が居ないのは、

それに関しては、残念ながら、

全く素質が無かったということだ。

 

「無い」ということ。

ここ数年は、

ある意味、ここを目指して、

歩いて来た気すらする。

 

わたしのようにHSPは、

周りのことばかり考えて、

自分の気持ちが見えなくなるから。

そのうち、

周りに気を使いすぎて、

誰の人生か、わからなくなるから。

 

自分自身を強く持つのは、

得意では、ないから。

「気を使うモノ」自体を、

減らしてきたのかもしれない。

本当の自分に、会いたくて。

 

「誰にも気を遣わなければ、

ワタシは、何を思うのだろう?」と。

 

ここまで来ると、

伸び代しかない気もする。

迷惑さえかけなければ、

信念のままに生きたっていいんだ。

 

今さら、何かを大成できるとも思わないけど。

 

モノづくりが好きだった子供の頃、

漠然と、何か作品を作って、

「我ながらいい出来だ♪」と思った時に。

いつかテレビで見た、

有名な作家の、

未公表の作品が発見された記事とか思い出して。

「わたしがいつか有名になったら、

これも価値が出るかもしれない」なんて妄想して。

大事にとっといたりなんかしたものだけど。

 

ここまで生きてくると、

何も残せない人が、大半と気づく。

それが現実だし。

だから、別に、

自分が生きた跡を、

せっせと遺す必要もない。

ましてわたしには子孫が無い。

わたしを知らない人ばかりになったら、

遺された方も、迷惑だろうしね。

 

だから、なんだか、

いろんなしがらみが、

無くなってきた気がするのだ。

 

近所も高齢者ばかりになってきて。

デイサービスの車や、

透析の送迎車が往復する住宅地で、

今さら、

どこの娘ともしれない、

わたしの生き方をやっかむ人も、

そうそういないのではないか。

人のことを言う余裕も、無いのではないか。

そんなことも、思うのだ。

 

周りがどう評価しても、しなくても。

瞬間、瞬間を、

自分の気持ちを大事に、

自分の人生を、

生きていきたいなと思う。

たとえ、何も、残らなくても。

みなるは、わたしは、

幸せに生きたことを、

わたしだけが知っていれば、

それでいいんじゃないか。

別に、誰かに振り返られるような人生でも無い。

誰かの、記憶に残るような人生でも無い。

少し後で振り返って見れば、

人類の歴史で、大半の、

名もなき「とある女性」の人生、

というだけのことなのだろうから。